村上講演が若い世代に示したこと
6/5松山大学講演から
この日の講演を一言で言い表すと、さしずめ「若い世代にも責任を負える(将来見通しにたった)政治はどうあるべきか」を自らの半生の政治活動を通して明らかにする、といったことになるかと思う。
当初、座って講演するための席が設けられていたが、実際は、3時間近く立ち通しで、しかも演壇を降り、時には受講者の間を回りながら対話調で、時にはプロジェクターの映し出す画面を指示しながらと、さながら大学の講義風景そのものといった感じであった。
人気取りの政治から脱却する必要
さて、講演内容だが、前半部は世界一といってもいい赤字国債を抱える国家財政を立て直すことは、次世代に負荷を残さない現役世代の責任だ。その意味で消費税値上げの先送りをしたことは看過できない。これは与野党ともに責任を負わねばならない。(政権与党の、国民が収めた年金の大半を株投資に回すといった金融政策の問題点にも言及)。
消費税は段階的に上げ、20%程度の負担と、「低負担高福祉」の社会保障の中身を吟味して「中負担中福祉」へと変えていく覚悟が必要だ注1)と説く。
1)講演後の質疑で疑問が集中した一つがこの消費税を引き上げる点だった。会場の疑問を要約すると、今日の日本では貧困や格差が拡大し、相対的貧困率では先進国では米国に続く高さを「誇る」日本で、国民の誰もに一様な税率を課す逆進性の強い消費税(=間接税)に絞った税負担を求めるという説明には納得がいかないということであろう。戦後のシャープ税制では、高所得者に対する所得税の最高税率は80%だったものが現在では40%代に大幅に下げられる一方、法人税も引き下げられる今日、所得税の見直しが間接税の引き上げの前提になるのではないかという論点は、検討の余地があるように思える。
後半部は、自己の信念を現実の力関係や権威の前で簡単に曲げてしまうようなことがあってはならない、と村上氏自身の政治家半生を振り返りながら語られた。とりわけ、個人情報保護法については、当時城山三郎氏など権威筋の影響を受けたマスメディアの論調に抗して闘った体験を、他方で特定秘密保護法や今問題となっている安保法制では、党の権威筋の圧力に抗して自らの信念を曲げなかったことを披露した。
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秘密国家を目指す安倍内閣⇔主権者としての国民の責任
特定秘密保護法は、西山事件など、現在でも国民の知る権利が制約されがちな日本の現状で、さらに政府権力者の行ったことが世界にも例を見ない最大60年もの間秘密下に置かれるという驚くべきものである。さらに、それを暴くと重罪に問われるといった全体主義国並みの秘密主義が貫かれる。こうなると国民が権力の不正を暴く権利も事実上葬られてしまいかねない。
次に昨年9月に成立した安保関連諸法では、明らかに日本国憲法で禁止している集団的自衛権を、解釈上可能とする厚顔無恥がまかり通っていることに強い憤りが表明された。曰く「おそらく、この事例が国家試験に出れば、誰もが憲法に違反する法律を作ることは許されないという答案を書くだろうに、現実にそういった問題に直面するや否や、それに身を張って抵抗することから逃げてしまう。こうした傾向こそ民主主義を骨抜きにするものであり、主権者としての責務からも逃げてしまうことだ。」と説かれる件には、その声のトーンといい鬼気迫るものが感じられた。
真の安全保障は、敵を作らないこと
この問題との関連で取り上げられた安全保障に関する知見は大いに納得させられるところがあった。つまり、「安全保障」は敵を減らすことを目的とするが、「防衛」はまず仮想敵を定め、その相手の戦力に対応できる戦力を考えるので軍拡競争を招きやすい。現に新たな安全保障の枠組みとしても機能するEU圏を形成するヨーロッパでは、各国で軍縮がかなり進んでいることが数字的にも明示された。そんな中で日本が仮想敵を作ることに躍起になって、強いアメリカの信頼を得ようと彼らの要望に応じて憲法の禁じる集団的自衛権を行使してまで他国の紛争に介入すべく自衛隊を派遣し、自らの国民の命を危険に晒すような真似をすることほど安全保障に反することはない、ということだ。
教育に求められるものは、自ら考える人間の創出
この後、教育論が披露される。「真の教育とは・・・人間の本質とは何か、生命とは何かを伝えることである。・・・」という件は、大学における教養教育の重要性とも関わる言葉として重く受け止められよう。安倍内閣になって、昨年、文部科学省から大学の文系学部宛てに「改組、廃止」を指示する通知が届き、大学関係者を狼狽させたことは記憶に新しい。この通知の言わんとすることは、今更大学でリベラルアーツ(つまり幅広い教養)を教えても役に立たない。エリート以外は実用教育に方向転換すべきだ。それができないなら文系学部は廃止だという反知性的ともいうべき指示が出されたのである。各大学が研究や教育そっちのけで大学改組に乗り出し始めている惨状に対する喝!が入れられたという感がある。
教養教育に敵意を燃やす安倍内閣が目指す国家と人間像
実際、こうした通知を出す背景には「シェイクスピアーなど教えるよりも観光英語を教えればいい」「サミュエルソンの経済学よりも簿記を教えろ」果ては「日本国憲法を教えるよりも宅建法を教えろ」と提言していた安倍内閣の教育諮問会議のメンバーの意向が強く働いたと思われる。安倍内閣が進める日本国憲法を蔑ろにしてやまない安保法制の強行は、もう一方で「ものを考えない人づくり」と密接にリンクしていることがこうした政策の流れを見ると透けて見える気がする。
堤未果のルポ注2)によると、ブッシュ政権時副大統領だったチェイニーは、イラク戦争の泥沼化に乗じる形で、自ら率いる民間軍事会社(=戦争代行会社)に政府からの多額の資金を引き出していたという。そこで行われる最大の軍事訓練が、兵士たちから人間的感情や思考力の一切を奪い取り、「ただひたすら上官の命令に機械的に反応する人間」づくりであったという。
一方で、次々と仮想敵を作り注3)(北朝鮮だ、中国だ、ISだ、テロリストだ・・・)、村上氏の言葉を借りれば、安全保障よりも防衛に傾斜する安倍内閣が、大学教育で進めようとする「ものを考えなくてよい」人づくりは、実は戦争請負人の訓練目的とも通底しているのである。私見では、この日の村上講演は、安全保障と教育のあり方をめぐるこの関連を解き明かす糸口を与えてくれたという意味で、学術講演にふさわしいものであったように思える。
2)堤未果,貧困大国アメリカ,2008,岩波新書
3)18世紀半ばの政情を、アダム・スミスは、「愛国心」との関連で、皮肉を込めて論じている。
"From the smallest interest, upon the slightest provocation, we see those rules every day, either evaded or directly violated without shame or remorse. Each nation forsees, or imagines it forsees, its own subjugation in the increasing power and aggrandisement of any of its neigbours; and the mean principle of national prejudice is often founded upon the noble one of the love of our country."(Adam Smith, The theory of moral sentiments, PartⅥ, ⅱ,3, p.228,1976,OUP)
翻訳例
「ほんのわずかな挑発に対する、ごくわずかな利害から、国際法のルールが日々、恥も呵責もなく無視されたり侵犯されるのを我々は見る。どの国も近隣国家による国力の増大や拡張が自国が征服されることにつながるのではないかと予見したり、想像したりする。かくして国家的偏見という卑しい原理が、しばしば祖国愛という高貴な原理の装いの下に唱えられるのである」。(アダム・スミス,『道徳感情(判断)論』第6部徳性論から)
文責(HP担当M.,T 後日加筆補正予定)
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